🗺️歴史をたどりながら、世界遺産を知る2026年度版
← チャプター一覧

水と交易が育てた、忘れられた都

砂漠、密林、サバンナに残る三つの繁栄

紀元前後〜15世紀

第9話は、ヨーロッパ・中国・インドから視点をずらし、中東・東南アジア・アフリカに、かつて栄えた都を訪ねる。まずヨルダンのペトラ。砂漠の岩山をくり抜いてつくられた、ナバテア人のキャラバン交易の都だ。次にカンボジアのアンコール。雨季と乾季のはっきりした土地で、巨大な貯水池と水路を使いこなしたクメール王朝の都。そしてジンバブエのグレート・ジンバブエ。インド洋交易につながる金の産地を押さえた、アフリカ内陸の石造りの王国の都だ。 気候も地域も違う3つの都に共通するのは、「水を制する」か「交易路を制する」ことで富を築いた点だ。そしてどの都も、やがて外の世界の視界から消え、近代になって欧米の探検家や研究者によって『発見』されたと語られることが多い。ただし実際には、地元の人々にとって忘れられた場所ではなかった。この『発見』という言葉の危うさにも、あわせて注意しておきたい。

このチャプターで押さえる世界史の軸

  • ペトラ―砂漠のキャラバン交易と、岩山に刻まれた水利システム
  • アンコール―雨季の水をため、水路でめぐらせたクメール王朝の水利都市
  • グレート・ジンバブエ―インド洋交易とつながった、アフリカ内陸の金の王国

🎧 第9話:水と交易が育てた、忘れられた都

想定12分

ペトラ(ヨルダン)の写真

写真:The Treasury, Petra, Jordan1 — Diego Delso(CC BY-SA 3.0) via Wikimedia Commons

文化遺産検定区分:世界の文化遺産
1985年登録

ペトラ

ヨルダン

ヨルダン南部の砂漠にある、ナバテア人の都の遺跡。ナバテア人は、紀元前後の時代に、アラビア半島の乳香や香料、シルクロードの品々を運ぶキャラバン交易の中継地として栄えたアラブ系の民族だ。彼らは、バラ色の砂岩の断崖に、神殿や墓、住居を直接掘り込んで都を築いた。ペトラという名前は、ギリシャ語で「岩」を意味する。 遺跡の象徴が、入口の細い渓谷(シク)を抜けた先に突然現れる「エル・ハズネ(宝物殿)」だ。高さ約40メートルの壮麗な正面は、岩壁を彫り出してつくられており、実際には王の墓だったと考えられている。「宝物殿」という名前は、盗賊が財宝を隠したと信じた後世の人々がつけたものだ。ペトラのもうひとつの特徴は、乾燥地帯にありながら、ダムや貯水槽、水路を組み合わせて都に水を引き、貯めていた高度な水利システムだ。紀元106年にローマ帝国に併合され、その後は交易路の変化などで衰退した。近代になって1812年、スイス人探検家ブルクハルトによって西洋世界に紹介された。

📝 検定ポイント(これだけは覚える)

  • 登録年は1985年、所在地はヨルダン、ナバテア人が築いた砂漠のキャラバン交易都市
  • 代表建造物はエル・ハズネ(宝物殿)、岩壁を彫り出した王の墓とされる
  • 紀元106年にローマ帝国に併合、1812年にブルクハルトが西洋に紹介

雑学メモ

  • ペトラの入口には、幅の狭いところで数メートルほどの細長い渓谷(シク)が約1キロメートル続き、その先に突然エル・ハズネの正面が現れる。
  • エル・ハズネの「宝物殿」という名は、盗賊やファラオの財宝が隠されていると後世の人々が信じたことに由来し、実際の用途は王の墓とする説が有力。
  • ナバテア人は、乾燥地帯にダム・貯水槽・水路を巧みに配置して水を確保しており、砂漠の都を成り立たせた鍵は高度な水利技術にあった。
🌍 Google Earthで場所を見る
アンコールの遺跡群(カンボジア)の写真

写真:Angkor Wat with its reflection (cropped) — Satdeep Gill(CC BY-SA 4.0) via Wikimedia Commons

文化遺産検定区分:世界の文化遺産
1992年登録

アンコールの遺跡群

カンボジア

9世紀から15世紀にかけて、東南アジアで栄えたクメール王朝の都の遺跡群。カンボジア北西部の広大な地域に、寺院・都城・貯水池・水路が点在している。その代表が、12世紀前半に王スーリヤヴァルマン2世が建てたアンコール・ワットだ。もとはヒンドゥー教のヴィシュヌ神にささげられた寺院で、のちに仏教寺院としても使われるようになった。中央にそびえる5つの塔は、神々の住む須弥山(メール山)を表すとされる。アンコール・ワットはカンボジアの国旗にも描かれる、国の象徴だ。 アンコールの繁栄を支えたのは、雨季の水をため、乾季に田へ流す水利システムだった。バライと呼ばれる巨大な人工の貯水池と水路網を整備することで、安定した稲作を実現した。12世紀末には、王ジャヤヴァルマン7世が仏教を厚く信仰し、アンコール・トムと、観世音菩薩の巨大な顔が刻まれたバイヨン寺院を築いた。15世紀に王朝は都を移し、アンコールは衰退したが、寺院は地元の人々に信仰され続けており、忘れ去られたわけではない。19世紀に西洋に紹介され、世界的に知られるようになった。

📝 検定ポイント(これだけは覚える)

  • 登録年は1992年、所在地はカンボジア、9〜15世紀のクメール王朝の都の遺跡群
  • アンコール・ワットは12世紀前半、スーリヤヴァルマン2世が建立、もとはヒンドゥー教(ヴィシュヌ神)の寺院
  • バライ(貯水池)と水路による水利システム、ジャヤヴァルマン7世のアンコール・トムとバイヨン
  • 1992年の登録と同時に危機遺産リストへ、2004年にリストから外れた

雑学メモ

  • アンコール・ワットは、もとはヒンドゥー教のヴィシュヌ神の寺院として建てられ、のちに仏教寺院としても使われるようになった。
  • アンコール・ワットは、カンボジアの国旗の中央に描かれている、国の象徴となっている建造物。
  • アンコールの遺跡群は、1992年に世界遺産へ登録されたと同時に、危機遺産リストにも記載され、その後保全が進み、2004年にリストから外された。
🌍 Google Earthで場所を見る
グレート・ジンバブエ遺跡(ジンバブエ)の写真

写真:Great-zim-aerial-looking-West — Janice Bell(CC BY-SA 4.0) via Wikimedia Commons

文化遺産検定区分:世界の文化遺産
1986年登録

グレート・ジンバブエ遺跡

ジンバブエ

アフリカ南部、ジンバブエにある、11世紀から15世紀にかけて栄えた石造りの王国の都の遺跡。名前は、ショナ語で「石の家」を意味する言葉に由来するとされ、国名の「ジンバブエ」も、この遺跡から来ている。中心となる「大囲壁」は、周囲が約250メートル、高いところで約11メートルにおよぶ石の壁で、しかもモルタルなどの接着剤を使わず、加工した花崗岩を積み上げただけでつくられている。 この王国が栄えた背景には、インド洋交易がある。内陸で産出した金や象牙は、東海岸の港町を経由して、インドやアラビア半島、さらに中国へと運ばれた。遺跡からは、中国の陶磁器やペルシャのガラス製品が出土しており、内陸の都がインド洋をめぐる世界規模の交易網につながっていたことを物語る。なお、近代になって欧米の人々が遺跡を知ったとき、「アフリカ人にこれほどの石造建築はつくれない」という偏見から、フェニキア人などの外来の民族がつくったと主張する誤った説が広まった。しかし20世紀前半の考古学的な調査により、この地のアフリカの人々(ショナ人の祖先)の手によるものだと確認されている。

📝 検定ポイント(これだけは覚える)

  • 登録年は1986年、所在地はジンバブエ、11〜15世紀に栄えた石造りの王国の都
  • モルタルを使わず、加工した花崗岩を積み上げた石壁(大囲壁)
  • インド洋交易(金・象牙)とつながっていた、国名『ジンバブエ』の由来となった遺跡

雑学メモ

  • グレート・ジンバブエの「ジンバブエ」は、ショナ語で「石の家」を意味する言葉に由来し、1980年に独立した国名の由来にもなった。
  • 遺跡から中国の陶磁器やペルシャのガラス製品が出土しており、内陸の都がインド洋交易でアジアとつながっていたことを示している。
  • 遺跡から出土した鳥の形をした石像は、ジンバブエの国旗や国章のモチーフにも使われている。
🌍 Google Earthで場所を見る
このチャプターのクイズに挑戦する →